百済三書

CiNii -〈研究〉欽明紀分注の成立事情

P.16 <<< 百済記と百済新選とは日本列島で書かれた書物である。ところが百済本記は百済で書かれた史書である。都の位置から見てこうしたことが判明する。 >>>

P.20 <<< こうして、欽明紀の現資料ではもともとは「加羅國」つまり金官国に在住する倭系人の一団とその集会所を指していた筈の任那という地名の用法が、朝鮮半島の南端部に広がる独立の小国の全域を指す用法に拡大され、半島南部地域に対する倭国の領有権の根拠を示す用語へと変形していったからである。 >>>

P.21 <<< 欽明紀の編者は「任那」という地名を一貫してこうした広い意味に用いているわけである。続守言とおぼしい欽明紀の編者は任那の範囲について「一本」の解釈を採用した途端に、任那という用語に縫い付く多義性に災いされ、加耶諸国と加羅国と倭臣団とを一貫して混淆するという歴史五人の地平に落ち込んでしまう。 かくて新羅からの金官国の解放という百済が目指した課題と、金官加羅に設置された倭館の回復という倭臣団のめざしたはるかにささやかな目的を混同したまま、史実とは掛け離れた歪んだ記述を後世に残すことにしなってしまった模様である。 >>>

P.25 <<< 威徳王の時代の百済と、百済が滅亡してから亡命政権に転落してからの百済では、倭国との威信における優劣関係が逆転してしまったとしてもそれは’当然のことであったからである。応仁紀七年条に引く百済紀に「修先王好」とあることからも窺われる様に、聖王や威徳王の時代には、百済が兄で倭国が弟という序列にあったことは用意に見て取れる。仏教を受け入れる倭国の大王を百済側が仏の守護神のごとき王という意味で「天王」と読んだ公算は高いと言えよう。 >>>